2007-08-29

もう一度行ってみたい場所:Museum of Fine Arts








MIT入学後、最初の乗り越えるべき壁は、家探し。次は、家具、車探し。そして、何といっても英語だった。ほとんどの留学生は勉学に必要十分な英語力が不足しているとして、"English as a Second Language"、通称ESLの授業が必修として課せられる。

週3回、朝8時からの授業を半年受講したが、これが一番難しく、かつためになる授業だったかもしれない。世界中の国から集まった専門領域も異なる留学生が1クラス30名ぐらい集まると、まるでオリンピック選手村のカフェテリアのようで、実にいろいろな国の様子が、自己紹介やクラス討議で明らかになる。

20年前の当時、中国からの留学生は政府派遣であり、夫婦同時に留学する(出国する)ことが許されていなかった。韓国からの留学生は、国内の大学入試が難関で、自国の大学で修士号や博士号を取得することは至難の業だった。また、米国企業へ就職し、あわよくば米国籍を取得し、韓国から家族を呼び寄せたいという人がたくさんいた。兄弟のひとりは国内に残り、ひとりは外国で成功することで、リスク分散を図るのだそうだ。

こうしたESLのFinal Exam(学期末試験)は、ボストン美術館で行われた。自国の展示物を前に、クラスメートにわかりやすく説明するという課題。ボストン美術館は、日本画、特に浮世絵が大量に所蔵されているので有名。丁度、歌麿や広重の絵が展示されていたが、倉庫には展示物の数倍、数十倍の美術品が所蔵されているという。江戸時代の背景説明や、東海道といった幹線道の発達を汗を流して説明したような薄っすらとした記憶がある。日本語で今説明するのも難しいので、きっとひどい出来だったに違いない。しかし、出席率で稼いだこともあり、なんとかすべりこみで単位が取れた。ボストン美術館は、そういう意味でも思い出深い。

現在、美術館は所蔵品のデータベースを充実させているようで、すでに30万点を超えるデータベースができているようだ。こちらをご覧いただくと、keyword"ukiyo-e"で検索するとこんなに浮世絵を所蔵しているのかと驚くほど出てくる。

2007-08-28

もう一度行ってみたい場所:Arlington Center







米国で最初に住んだ場所が、ケンブリッジのアーリントンセンター。街の中心に、消防署と小さな商店が並ぶ。Spy Pondという静かな湖に面したアパートに1年間住んだ。

8月20日に初めてMITに行き、Campus Housingという大学内で学生に住居を斡旋するオフィスを訪問したが、時すでに遅し。学内の家族寮はいっぱい。後は、無料電話が使えるから、自分で街の不動産屋に電話して、家を探せと突き放された。これが米国到着2日目。連れ合いと顔を見合わせたが、やるっきゃない。

つたない英語で、不動産屋さんと会話するが、米国で家探しなどしたことがなく、単語がわからない。どんな家を探しているかと聞かれても、思いつくのは、庭掃除が大変だから大きな庭はいらない、冬の雪かきが大変でない駐車場がある、薄暗くない....といったネガティブなものばかり。

不動産屋さんもあきれて、兎に角一緒に物件をみましょうということになった。レンタカーしたばかり、2日目、道もわからず、当時はカーナビもない。汗だらだらでやっと不動産屋にたどり着く。あとは車に乗せてもらい何軒か物件を見たあげくに、たどり着いた要件は、セキュリティがしっかりしていて、屋内駐車場がある、1LDKぐらいの広さのアパート。

この要件にピッタリだったのがアーリントンセンター、Spy Pond沿いのアパートだった。アパートが見つかっても、次は家具を調達しないと、家具がみつかるとカーテンをどうしよう、バスルーム用品はどこで調達するか、キッチンの道具、掃除用具、電話はどうやって加入するのか......まったくゼロから新婚生活をはじめるようなわけで、これを1週間後に授業がはじまるまでに片付けるのは至難の業。

勿論、前年から留学している先輩たちのアドバイスがなければ、とても生活のセットアップはできなかった。そして、運よくボストンに会社のオフィスもあり、会社の先輩にも一方ならずお世話になった。

連れ合いと二人、何でも力を合わせてあたってくだけろで、とにかくやるしかない、というその後の二人の生き方を決めるような大変な経験をすることができた。大変な経験といえば、住んでしばらくして、カレーを作ろうと豚バラ肉をフライパンで焼いていて煙探知機が働いてしまい、センターにある消防署から消防車が出動。たくましい消防士が土足で部屋に進入。アパート住人は全員室外退去という事態を引き起こしたことが懐かしい。消防士しわく、"Good smell!"

2007-08-26

クレイトン・クリステンセン:イノベーションのジレンマ



ハーバード・ビジネススクールの教授とは、いろいろな出会いがあった。クリステンセン教授とは、有名な"Disruptive Technologies"や"Disruptive Change"に関する論文発表前の1994年にボストンでお目にかかる機会があった。

2006年頃から、グローバルな競争市場が一層フラット化する中、『イノベーション』をキーワードとする国家の競争力、企業の競争力に関する議論が盛んだ。

同じお客さまに対して、同様な製品・サービスを提供しているある企業は利益を上げ続け、成長発展するのに、別の企業は売上も伸びず赤字におちいり、衰退するのはなぜか? ここ10年来、関心を持ち続けているテーマだが、発端はボストンでのクリステンセン教授との出会いだったことを思い出した。

以下は、5年前に読んだ本の読後感想。ところで、読後感想にもでてくる、ハードディスクの会社であるSeagateを中国の会社に売却する話がでている。これが、IBMがPC事業をLenovoという中国の会社に売却したとき同様、国家安全保障にかかわる事項で連邦政府が関与するとなっているらしい。企業の競争力、国家の競争力がグローバリゼーションによりあらゆる壁が低くなりだし、いろいろな構造問題をはらんできている。

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「イノベーション」というキーワードを考えるようになったきっかけはクリステンセン・ハーバード大学教授との出会いである。

1994年11月、1年ぶりで米国のボストンを訪問する機会があった。5年にわたる米国での海外勤務を終え帰国して1年がたっていた。その頃、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と謳われた日本の生産力に陰りが見え始め、モノづくりで常に日本にリードされていた米国は、EMS(製造アウトソーシングサービス)専門企業を生み出した。競争力で負けている製造を自社から切り離す動きをはじめた。IBMやHPは、工場を従業員ごとEMS企業に売却し、その換わりに売却した工場でEMS企業のやり方で同じ製品を作りつづけるというおもしろいビジネスをはじめた。

同じ製品を、同じ作業者が、同じ生産ラインで作りつづけるのに、IBMやHPの時代は赤字で、EMS企業に経営が変わるとなぜ黒字転換できるのかが、どうしても解けない疑問だった。解答をもとめてフロリダのJabil、カリフォルニアのSolectronなど、EMS企業を訪問し、実際に工場を見学させてもらった。その帰りにボストンに寄り、クリステンセン教授をお招きして議論する機会があった。

当時まだ准教授だったと記憶している。1995年1月にHBR(Harvard Business Review)に発表予定の原稿ゲラ刷りを紹介してくれた。それは、HDDでマーケットシェアNo.1のシーゲート社が、HDDの小型化という技術革新になぜ乗り遅れたのかを実証する論文だった。

HDDの最初のお客様は大型コンピュータメーカーであり、1978年当時のHDDはサイズ14インチ、容量200MBが主流だった。この頃8インチHDDは開発途上で、まだ容量20MBがやっとという状況。IBMをはじめとするHDDメーカーは開発の主力を14インチにおいており、新興企業のシーゲートは8インチだけに注力して、小型大容量化に邁進することになる。1985年頃には8インチが14インチを完全に凌駕する性能を実現し、14インチの技術に固執していた企業はマーケットから取り残された。
1985年といえば世の中ミニコン全盛の時。DEC、データジェネラルはじめ優良ミニコン顧客を押さえていたシーゲートは顧客の望む仕様のHDD開発に邁進するため、新しいPCの顧客ニーズに敏感に反応することはできない。この頃、HDD技術としては一層の小型・大容量化に関しての技術革新の芽が出始める。それが3.5インチHDD。ところが、ミニコンメーカーからすると8インチから5.25インチに小型・大容量化が進展したことで充分満足しており、これ以上小型・軽量にする必要性は感じていない。シーゲート技術陣がいくら顧客ニーズ調査を行っても、3.5インチ対応は不要との結論にいたる。
こうしてPCメーカーを主要顧客として3.5インチ技術革新を達成しようとしたコナーペリフェラルズはじめの新興企業は技術革新をやりぬくことができ、一方でマーケットシェアNo.1企業のシーゲートは技術革新に乗り遅れる事態となる。

クリステンセン教授はこうした勝組み企業が陥る落とし穴を「不連続な変化」(Disruptive Change)と名づけ、企業の盛衰はこの不連続な変化をいかに組織として乗り越える手を打つかにかかっていると説く。

よく企業の強みを「コンピタンス」という。コンピタンスとは、一つには抱えている技術者、技術力、設備能力、製品開発力、情報、ブランドなど「資源」と総称できるもの。二つには意思決定や、コミュニケーションや調整力を働かせ、組織を動かすプロセス、強みとする技術力や資源をつかって、顧客の求める製品・サービスを生み出していく「プロセス」そのものが企業の強みの要素となっている。三つ目は、どういう顧客を重要視するか、持てる資源を製品・サービスにどう転換するか、どういう仕事の進め方がよいやり方として誉められかといった従業員の持つ「価値基準」である。勝組み企業は、「資源」と「プロセス」と「価値基準」をどう組み合せれば顧客ニーズに適合するか、ヒット製品が生み出せるかを知っているので、強い売れる商品・サービスを連続して世に出せる。いわば立ち止まって考える必要などない、今まで通りのことをうまくやっていれば成功する安定した市場環境では、勝組み企業の連戦連勝が続くのである。

「不連続な変化」の中、勝ち続けるために

1)社内に全く異なる目標を掲げた別チームをつくる
2)分社化して別会社をつくる
3)他社を買収して他社の強みを生かす

日本企業は、カンパニーワイドのプロジェクトを発足させ、組織の壁を越えて、新しい革新的取組みをはじめている。まさに「不連続な変化」が起きているグローバルな市場で生き残るには、従来の延長線上にない新しい勝パターンを作るためである。顧客(販売店)の先の顧客を見ることなしに、真の顧客ニーズの把握ができないこと。さらには現在の重要顧客だけでなく、新たに各産業分野で起きている「不連続な変化」を見据え、次なる勝組み企業はどこになるかの見極めが大切なことをこの本は教えてくれる。自社のプロセス改革だけを考えたのでは生き残れないことは当たり前として、どの顧客ニーズを実現するかも改革の中心に据えた取組みが必要である。

思い出のCampus:Harvard University













なんといっても思いで深いのが、ボストンにあるハーバード大学。ボストンのダウンタウンとケンブリッジの間をチャールズ河が流れていることは、MITの紹介のときにも述べた。チャールズ河のケンブリッジ側を走るメモリアルドライブは、MITやハーバード大学に留学した方は、誰でもが懐かしく思い出す道。

道沿いに行くと、美しい橋がいくつも架かっている。ハーバード大学のメインキャンパスは河の北側にある。河の南側にはビジネススクールがある。どちらにも世界有数の図書館がある。ハーバード大学は設立が1636年で、米国で最初に作られたカレッジで、図書館の蔵書は1,500万冊に上る。

MIT留学時、最初に住んだのは、アーリントン・センターでハーバードよりももっと北に車で15分ぐらい行ったところ。毎日自宅アパートから、マサチューセッツアベニュー沿いにハーバード大学の横を通って、MITに通っていた。ハーバード大学近辺の通りは、四季折々、違った美しい景色を楽しませてくれた。

今時分は、もう夏の終わり、秋の気配が感じられるに違いない。秋の新学期がはじまる時期でもあり、大学は活気を取り戻していることだろう。秋の抜けるような青空を思い出す。

2007-08-25

思い出のCampus:Princeton University












ニューヨークからフィラデルフィアに向かう途中にプリンストンがある。車をプリンストンに向けて走らせていると、道の両側に街路樹の並木が続き、なんとはなしにアカデミックな雰囲気が漂ってくる土地柄。

知人が牧師を目指してプリンストン大学で勉強中だったこともあり、ニューヨークで生まれたばかりの娘のベビー用品を借り受けるため出掛けた。大学構内は、ゴシック建築の図書館と大きな教会が立派だ。

それよりなにより、家族寮で知人と話していると、目の前の道を昔、アインシュタインが毎日散歩していたそうだ、という話がでてくる。白い髪をなびかせ、ソックスをはかずに歩くアインシュタインの姿が見えるようだった。

大学に近接して1933年から没年の1955年までアインシュタインが研究したInstitute for Advanced Study(IAS)があるという。今ホームページで調べると、アインシュタインの他に、ゲーデル、オッペンハイマー、フォンノイマンという科学の世界で有名な人ばかりでなく、ジョージ・ケナンもここに所属していたことがわかった。

アインシュタインとゲーデルが仲良く一緒に散歩したIAS前のキャンパスは、こんなだったかと今また当時の記憶を呼び覚ましている。

思い出のCampus:Yale University








ボストン在住の頃、金曜日夕方から週末にかけて、よくニューヨークの知り合いの家に寄せていただいた。ボストンからニューヨークまで車で4時間、約200マイル(320キロ)の距離。いろいろな道を使って行き来した。

ニューヨークからの帰路は、95号線を海沿いにコネチカット州ニューヘイブンまで辿り、そこから内陸に入る道が好きだった。その当時、ニューヘイブンにあるYale(イェール)大学に滞在中の知人がいて、一度大学キャンパスを案内していただいた。

イェール大学は米国で3番目に古い大学で、1701年設立。ゴシック建築の建物が重々しく、歴史を物語っているなあというのが第一印象。古い石造りの回廊は、昼間も薄暗く、夏も涼しい風が吹き抜ける。回廊を歩いていると、自分も哲学者になったような厳粛な気分になった。

1989年以来、アメリカ大統領はイェール卒業生で占められている(ブッシュ、クリントン、息子のブッシュ)ヒラリー・クリントンも卒業生とのこと。

ボストンにあるハーバード大学とイェール大学は、毎年レガッタでも、カレッジ・フットボールでも宿敵同士。アイビーリーグのフットボール最終戦は、"The Game"と呼ばれ、毎年両校が過去100回以上対戦していて、いわば伝統の一戦。日本の大学野球における早慶戦のようなものか?

2007-08-22

もう一度行ってみたい場所:Circle Line








5週間かけてカナダ、アメリカ、メキシコを回ったとき、ニューヨークでは42nd StreetのPier83から出発するCircle Lineに乗った。約3時間かけてマンハッタン島を一周するクルーズだが、ニューヨークに3年住んでいた時にも乗る機会がなかったぐらいだから、あまり知られていないのかもしれない。

とにかくニューヨークは魅力的な街で、やりたいこともたくさんあるから、3時間もかけてとお思いの向きもあるかと思うが、決して損したと思わない感動的なツアーが楽しめること請負。

マンハッタン島はハドソンリバーとイーストリバーに挟まれたヒラメのような平板な島だが、西のニュージャージー、そして東のロングアイランド、北のウェストチェスターといくつもの橋でつながっていて、ボートでゆっくりと橋の下を遊覧すると一味違った楽しみが味わえる。

3時間決して退屈させることなく、おもしろおかしく解説してくれる名ガイドも忘れられない。夏の夕べ、照明に照らし出される橋は、ひときわ美しい。