2007-06-09

梅田望夫/茂木健一郎: フューチャリスト宣言


 梅田望夫は、コンサルタントの時代から注目していた人。今回は茂木健一郎なる人物と出会えたことがこの本を読んだ最大の収穫だった。二人ともネットの将来に対する明るい未来を信じて、新しく開けるであろうネット社会への希望を熱く語る。特に、二人が慶応義塾中学と、横浜国大の生徒・学生にそれぞれ語りかける授業に感動した。

 読後、茂木さんのBlogにアクセスを始めた。以来、毎日体当たりで世界を駆け巡り、人と出会い、語り合う日々を送っている茂木さんの真摯な生き方から勇気をもらっている。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/05/post_8d63.html
2007/05/10


茂木健一郎 クオリア日記

ギャップ・ライフ

ギャップ・イヤーとは、
イギリスを中心に根付いている、
高校を卒業した後
大学入学の前に一年ほど、どこにも
所属せずに世界を放浪したり、
ボランティア活動をしたり、あるいは
働くという習慣である。

高校を卒業して就職する前に
ギャップ・イヤーをとる
場合もあるし、
仕事に就いてから、節目にとる
「キャリア・ギャップ」もある。

日本では、「履歴書に一日でも
穴が空くとまずい」とか、
「就職する時には新卒が優先」とか、
「フリーの人には家を貸さない」
などという訳のわからない前近代的
風習がある。

ボクはある種の怒りをもって、
「ギャップ・イヤー」的なものを
広めたいと思っているのである。

この話をすると、「茂木さん何を
言っているんですか、日本には、4年間
のギャップ・イヤーがあるじゃないですか」
という人がいて、周囲に爆笑が起こる。

大学4年間を遊んでいるということを
指しているのである。
しかし、所属する組織が決まっていて
ふらふらしているのは、
どこにも所属しないでふらふらする
イギリスのギャップ・イヤーとは
違う。

ギャップ・イヤーの趣意は、どこにも
所属しないで天涯孤独であるという
点にあるのである。

とは言っても、我が身を振り返っても、
日本の実態の中でギャップ・「イヤー」
をとるのは難しい。

だから、最近は、「普段と異なる文脈に
自分を置く」ギャップ・マンス、
ギャップ・ウィーク、ギャップ・デイ、
ギャップ・ミニット、それどころか
ギャップ・セカンドでも取り敢えずは
いいんじゃないかと思っている。

とにかく、「この時間は普段の
私とは違う」という隙間を創ることが
大切だと思うのである。

そんなことをつらつら考えながら
歩いていると、ふと、わが畏友
塩谷賢の顔が浮かんだ。

ご存じのように、塩谷は、東京大学の
科学史科学哲学科の大学院を修了した
後、千葉大学で一時期働いた以外は、
定職につかず、論文も書かず、
ただ学会や研究会には姿を現し、
深刻かつ鋭い発言をして、
「日本の哲学界に塩谷賢あり」
と畏れられている。

塩谷の人生を考えると、
それはひょっとしたら「ギャップ・ライフ」
なんじゃないかと気が付いた。

「ギャップ・イヤー」というと、
その両側には何か真っ当な仕事を
していて、それに挟まれた空隙という
意味を持つ。

では、生涯続く「ギャップ・ライフ」が
何か真っ当なものに挟まれているかというと、
そんなものはない。
前世や生まれ変わりなどあるはずもない。

「ギャップ・ライフ」とは、つまりは
一生空白が続くということではあるが、
しかしそれをgap lifeと言い直した
ことで、
何だか素敵な雰囲気が生まれる気がした。

そもそも、土地を考えれば、何かの
役に立っているということは、ロクな
ことじゃない。

神社の森など、世間の進展から
置いておかれたアジールの方が、
美しい自然が残っていることは
周知の通り。

そういえば、塩谷くんは何だか神社の
森のようなやつだ。
ギャップ・ライフでいいじゃないか。
ギャップ・ライフを貫くことで、
かえって瑞々しいなにかが生まれる
ということは、きっとあるんじゃ
ないかと思う。

そう考えると、何と気持が豊かになる
ことであろう。
地球の内部の方で、周囲の岩に挟まれて
動けないでいる塊よ。
何も通らず、起こらず、ただ広がっている
だけの宇宙のほとんどの真空よ。
誰にも知られず、ただ生まれ死んでいく
海の生きものよ。
君たちは、ギャップ・ライフを謳歌して
いたんだね。

それどころか、もっとも有為な人生を
送ったように見える人でも、
実はそれは一つのギャップ・ライフ
だったのだろう。

 

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