2026-06-01

今日の絵:安野光雅の世界

10年ぐらい前から、パソコンで絵を描くことに挑戦しています。

このブログでも以前ご紹介したかもしれませんが、最近では絵を描くためのパソコンソフトやタブレットもだいぶ進化しました。

今は、ソフトはAffinityを使っています。当初、有料版を購入して使い始めたのですが、最近Affinityの会社(Serif社)がCanva社に買収されて、ビジネスモデルを変え無料でソフト提供をはじめました。

無償版といっても、有償版と全く同じ機能を持ち、それどろか有償版当時は、3つのソフトにわかれていた機能を1つに統合して使いやすくもなっています。

ツールの話はさておいて、安野光雅さんの話。子どもの絵本としていただいたり、買い足したりで、いつのまにか10冊ほど手元にあります。

絵の勉強のため、安野さんの絵を模写したりして練習しました。今日は、安野さんが海外へでかけて写生しているところと、旅の絵本からの1枚、わたしのスケッチ(パソコンで描いた)をご覧いただきます。










2026-05-31

第三十九歌集 三まはり目

先日、家族で誕生日を祝ったときのこと。

わたしは得意の料理に腕を振るおうと意気込んで、何にするときいたら、ケンタッキーと即座に応えあり。こんな感じで、思いをぶつけあえる家族って、いいねと感じた次第です。

記念日の卓を歌集にしてみました。










三まはり目の誕生日祝ふことばはとにかく幸せと当たり前の日々

誕生日一つずつ歳重ね祝ふ日に我が仔の干支の一回り前を見る

よく生きたいと親にみせたい日々送り自分がどんどん見えなくなる

好きな曲を鍵盤にぶっつけてふとわれを取り戻すこれでいいかも

わが庭に双葉萌え出る初夏の風わが仔と祝ふ記念日の卓

何食べる祝いの皿を問へばまたケンタッキーといふ笑みこぼれたり

朝顔の種を託さむとしてあれこれと語れば「世話はできないよ」と目を伏せ

祝い歌唄ふ声して友来たりプレゼント手にあゝ佳き日なり


2026-05-27

第三十八歌集 双葉にょきにょき

長年の友からの便りに、朝顔の種が同封されていた。

なんだろうと思ってみると、育て方を書いたメモも同封されていた。種まきの前の晩の世話から、植え方、育て方まで、まるでNHK趣味の園芸のテキスト。うれしかった。

そういえば治療がはじまってから、家の庭にでることもなかった。窓越しに庭の木をみる、葉が茂りだす、春だなあと感じることはあっても、ついぞ庭に出ることもなかった。

それが朝顔の種をまいたその日から、毎朝の水やりが楽しみになった。心遣いに感謝。










朝顔の鉢もて帰る夏休み蔓の影われを越えたり

われに寄り添ふ友より届く朝顔の種封書に入れて育て方添ふ

朝顔の種蒔きて毎朝のぞきゐしプランターより双葉にょきにょき

朝顔の種夜半に含みし甘水に揚力得たり双葉ひらきぬ

蔓巻く支柱を買はむどこまでとはかりかねつつ背丈ほど選ぶ

朝顔の花開くころ家族して色を語らふ日を思ひをり

朝顔のしぼみし花を掌に残る種はたれぞ植ゑなん


2026-05-23

第三十七歌集 待つ間の長し

昨日は、毎月の大学病院通い。朝8時から午後3時まで、長い長い時間を過ごす。

しかし、今回は待つ間もまわりの景色を観察し、ことばを選んで歌をつくって過ごしたら、長い時間も苦にならなかった。病院の待ち時間が多い今日この頃、これはいいやと思った次第です。










病院で会うゆるゆる歩む二人連れ添ひきし時の今あり

杖、車椅子、子の手を取り歩みゆくどの人もみな前を向きつ

ゆくも来るもゆっくりゆっくり歩みつつ 明日のわれを見るごとし

回重ね検査手順は慣れしもの結果待つ間の長し

診察室出づる顔みな遠く見て医師とのことば耳に残せり

四回目の点滴治療の針チクリ看護師の指先やさし

ぐーぱーと手を開閉し確かむる痺れる腕に薬液がゆく

生理食塩水最後一滴流れ込みあとは薬と病との時間

この治療を終へてのちには体とがんの対決となり次回検査待つ



2026-05-21

ボストンうた紀行 ケンブリッジ

ボストンダウンタウンのチャールズリバー対岸がケンブリッジだった。

川を渡れば、これから一年半学ぶことになるマサチューセッツ工科大学がある。マサチューセッツアベニューを北へ進めばハーバード大学、さらに先には滞在しているレキシントンがある。だが、ボストンへ来たばかりの私たちには、そんな地理もまだ頭に入っていなかった。

まず向かったのはMITの機械工学科教務室だった。バスを乗り継ぎ、地図を広げ、人に道を聞きながら巨大なキャンパスを歩き回る。建物番号の意味も分からない。ようやく教務室へたどり着いたときには、半日が過ぎていた。

入学手続きを終えると、次は家探しだった。

大学にはハウジングオフィスがあり、学生向けアパートや寮の情報が地域別のキングファイルに整理されていた。しかし、それはすべて紙だった。気に入った物件を探し、自分で大家に電話し、自分で交渉する。地理も英語も不慣れな私たちには、とても無理に思えた。

広さはスクエアフィート、部屋数はベッドルーム数、家賃はドル表示。言葉だけでなく、生活の尺度そのものが違っていたのである。

そこで、不動産屋を紹介してもらうことにした。これが大正解だった。

そこから、不動産屋の車で物件を見て回る「ボストンツアー」が始まった。広い庭付き住宅へ案内されても、私たちには大きすぎた。芝生の手入れだけで大変そうだった。掃除も追いつきそうにない。困っていることを必死に説明すると、不動産屋もようやく納得した顔になった。

そして連れて行ってくれたのが、アーリントンセンター近くの室内車庫付きワンベッドルームのアパートだった。

庭はないが、横浜の公団住宅ほどの広さがあり、私たちには十分だった。喜んで感謝を伝えると、不動産屋は少し呆れたような顔をしながらも、無事契約まで進めてくれた。大家も親切な人で、安心してモーテルまで送り届けてもらった。

その後も、家具探し、車探し、大学のオープンキャンパスと慌ただしい日々が続き、気がつけば八月は終わっていた。







チャールズの川を渡ればMIT異国の学びの門ひらかれぬ

マスアベ北へ伸びゆく道の果てハーバード越えてレキシントンへ

建物の番号ばかりのキャンパスに教務室まで半日歩めり

機械科の扉たたけば異国語の波に押されて汗のみ滲む

ハウジングオフィスの棚に並びたるキングファイルの厚みに驚く

紙だけの住宅情報繰りつつ電話番号を見ても途方に

スクエアフィートと言はれ頷けど広さの感覚まだ身につかず

芝生広き家を見上げて黙り込む刈るだけで日の暮れさうにして

庭はなくワンベッドルームなれどなお横浜ほどの広さありたり

大家さん穏やかに笑み鍵渡す異国にひとつ灯ともるごと

知らぬ国知らぬ暮らしの始まりにチャールズ川の風のみ確か


2026-05-20

ボストンうた紀行 ピューターポット

レキシントンのモーテルへ着いたものの、車がなければどこへも行けない土地だった。日本のように駅前へ出れば店が並んでいるわけではない。広い道路と森と空ばかりが続いていた。

翌朝、時差で早く目が覚めた私たちは、モーテルの周囲を歩いてみた。するとすぐ近くに、いかにもニューイングランドらしい木造のカフェレストランがあった。白い窓枠、小さな看板、まだ朝の匂いの残る静かな店だった。

二人とも空腹だった。成田を発ってから、まともに落ち着いて食事をしていなかった気がする。

オレンジジュースとコーヒー、それにブルーベリーマフィンを頼んだ。焼きたてだったのだろう。温かな生地から甘い香りが立ちのぼり、口に入れるとブルーベリーの酸味が広がった。その美味しさに驚き、翌日も、その次の日も、私たちは同じ店へ通うことになった。

レキシントンセンターには、散歩をしている旅行者らしい人々がいた。独立戦争ゆかりの街ということもあり、小さな土産物屋や古い建物が並び、時間がゆっくり流れているようだった。ニューイングランドの空は高く、木々の緑も日本とはどこか違って見えた。

だが、のんびりしてばかりもいられない。私たちは大学へ行き、入学手続きを済ませなければならなかった。まだ土地勘もなく、車もない。地図を広げ、バス路線を調べ、片言の英語で人に尋ねながら、どうにか大学へ向かうルートを探した。

何度も乗り継ぎを確かめ、ようやく大学の建物へたどり着いたときには、二人ともほっとして声も出なかった。

ここから先が、本当の「ボストン生活」の始まりだったのである。

――次章 ボストンうた紀行 ケンブリッジ――














時差により早く目覚めし朝ありて異国の空の青を見てゐる

木造のカフェの窓より灯こぼれニューイングランドの朝始まりぬ

オレンジのジュースまぶしく置かれたり長旅終へし卓の静けさ

焼きたてのマフィン割れば湯気のぼるブルーベリーの香の満ちてくる

翌日、そのまた翌日も店にゆく異国に馴染む匂ひひとつに

旅行者のゆるき歩みに混じりつつわれらも街の空気吸ひたり

紙地図を広げて探すバス路線大学遠くまだ見えざりき

やうやくに大学の門くぐりたりここより始まるボストンの日々

2026-05-18

ボストンうた紀行 レキシントン

横浜を離れ、私たちは今度は海を渡った。

白楽から京浜富岡へ移ったときも、新しい生活へ踏み出す思いだったが、ボストン行きはそれとはまた違っていた。自費での引っ越しだった。家族を連れての渡米である。当時は一ドル二百四十円ほどの時代。荷物もできるだけ減らし、三度目の新生活を始めようとしていた。

まだ海外旅行が今ほど身近ではなかった頃だ。ボストンへの直行便はなく、ニューヨーク経由で向かった。成田から長い時間をかけてJFK空港へ着き、さらにボストン行きのシャトル便を待つ。三時間ほどの待ち時間だったと思うが、退屈することはなかった。

空港にいるだけで、すべてが目新しかったのである。

聞こえてくる英語、巨大な案内表示、人々の歩く速さ、コーヒーの匂い、見たこともない広さの空港。疲れているはずなのに、眼だけは冴えていた。

ようやく小さなシャトル機がボストン・ローガン空港へ着陸した頃には、成田を発ってから二十時間近くが過ぎていた。

空港からは、郊外のレキシントンに予約していたモーテルへ向かった。だが、どのくらい離れているのかもよく分からない。まだGoogle Mapなどない時代である。頼りは紙の地図だけだった。

空港で捕まえたタクシーに乗り込むと、途中から相乗り客が入ってきた。運転手は、その客をまずボストン北部の街まで送り届け、それからレキシントンへ向かうと言う。

結果として、それはボストン近郊をぐるりと巡る小さな旅になった。

車は三車線のハイウェイを疾走し、車窓から古いレンガの家、深い森、大きな湖が見えた。相乗りの客は気さくな人で、「レキシントンは独立戦争の古戦場だ」とか、「冬になると雪が深い」とか、ボストンの歴史を話してくれた。

そして別れ際、「困ったことがあったら電話しなさい」と、自宅の電話番号を書いた紙を渡してくれた。

いま思えば、あれはまだ、古き良きアメリカが残っていた時代だったのかもしれない。知らない土地へ着いたばかりの私たちは、その親切にどれほど救われたことだろう。














JFK巨大案内板見上げつつ疲れし眼のみ冴えてゐたり

成田発つ二十時間の旅果ててボストンの夜の風に立ちたり

紙地図を膝に広げてタクシーの行先告ぐる声まだ硬し

三車線ハイウェイ夜を走りゆく湖黒く森深かりき

「困ったら電話しなさい」紙片受く知らぬ国にも灯のあるごと

古きよきアメリカありし時代なり紙片の文字のいまも温かし

白楽の坂を離れて海渡り三度目の暮らし始まる

一ドルが二百四十円の時代夢にも重さありしと思ふ

モーテルの鍵受け取りし夕闇に時差の深さが脚に残れり